その日、尹 央輝ユン・イェンフェイは機嫌が悪かった。

 雑事を済ませに街へ出かけたところ、運悪く以前恨みを買っていたゴロツキどもの下らない争いに巻き込まれたこともそうだったし、その際にお気に入りのライターに泥をつけられたこともそうだった。さらに言えば、これまた運悪く花城 花鶏はなぐすく あとりにばったり遭遇し、危うく弄ばれそうになる危機に晒されたこともそうだった。しかし彼女の眉間に浮かんだ皺の原因に最も寄与しているのは、今まさに目の前で展開されている出来事だ。

「おい、メシはまだなのか」
「めんどくさぁい☆」
「死ね」

 布団を幾重にも巻きつけて、まるで蓑虫のごとくただ床を転げまわるだけの存在に、問答無用で蹴りを入れる。風切音とともに鋭くも鮮やかに放たれたローキック、狙いは蓑虫の尻のあたりだ。ケツバットよろしくぱぁーんという甲高い音を響かせた――かと思うと、央輝は唐突に足首を押さえて蹲った。

「〜〜〜〜〜っ!」
「やぁーい、いぇんふぇいのばぁーか」
「死ね」

 作用・反作用の法則にしたがって反動を受けた央輝の足は、びりびりと痺れて動かない。対する蓑虫は、衝撃の方向ベクトルへと場所をほんの少し移動しただけだ。蹴られた当の本人は『わぁい動いた、らくちん〜』などと労を要さず移動できたことに喜びを感じてさえいる。割に合わぬ代償ペイに、しかし央輝は最後の矜持とばかりに眦に浮かぶ涙を堪えて叫んだ。

「オマエ、一体何のつもりだ!?」

 街で散々な目にあった央輝が、誰にも八つ当たりせずにここまで来れたのは、ひとえに自分の帰りを待っていてくれる家族こいびと――和久津智の存在のおかげだった。智が待ってるから――央輝自身にも自覚のない乙女心満載の心境で家に辿り着いた彼女を待ち受けていたのは、しかし脳裏に描かれていたイメージとは遠く離れたものだった。

――あたしは夢でも見ているのか?

 そう彼女が自問自答してしまうほど、智の様子がおかしい。
 普段ならばとっくに夕餉の時間を迎えている頃、それは央輝が一日のうちで最も楽しみにしているイベントの一つだ。
 智の料理は美味い。上手いだけでなく、美味いのだ。それは彼自身が料理好きであることも然ることながら、自分の作った料理を人に食べてもらうことが好き、という彼の性格によるところもあるのだろう。味付けは始めの頃と比べると央輝好みにシフトしていたし、央輝の好物と思わしき料理を定期的に振舞うことからもそれは窺える。
 そんな智が、「めんどくさぁい☆」などという巫山戯た理由で自分のために料理を作ってくれなかった――それは央輝に、自身が想像する以上の精神的なダメージを与えることとなった。

 ――ひょっとして愛想が尽きてしまったのだろうか? 普段の態度が余りにも悪すぎた? 冷たくしすぎたかも? それとも料理を素直に褒めて上げられなかったから? 「まあまあだ」なんてかっこつけなければよかった? でも笑顔で「おいしい!」なんてどう考えてもあたしのキャラじゃないだろ? ああ、どうすればよかったってんだくそっくそっ!

 疑問は巡る。堂々巡る。しかしどれだけ頭の中で自問自答を繰り返したところで、他者の思惑を量り知ることはできない。コミュニケーションにおける目的達成のための最適かつ最短の方策は、言語伝達行為に他ならないからだ。
 央輝は一つ息を吸い込むと、深呼吸をする。やむを得ない。緊急事態だ。プライドをかなぐり捨ててでも、智の料理を食べなければ。
 唇を引きつらせながら、央輝は訥々と蓑虫に話しかけた。

「あー、なんだか、ハラが減ってきて、ございました。なんか食うものないかなー。なにもないなー。あ、そこにいるのは料理大好き和久津智くんじゃねー、ですか。ここは一つ、オマエにお願いして、あげましょうか?」
「めんどくさぁい☆」
「死ね」



***



 ぴっぽっぱっぽっぱっぽっぱ
 とぅるるるるるるる、とぅるるるるるるるる、がちゃ

『はい、才野原、という名前の者かもしれない』
『と〜も〜が〜こ〜わ〜れ〜たぁ〜!』
『……どうか落ち着いて、央輝。君の方こそ壊れてしまっているんじゃないのかな』
『あたしは冷静だ! あたしにおかしいところなんて無い! おかしいのはヤツだ、そうだアイツがおかしいんだ! おいオマエ、何とかしてくださいお願いします』
『ふむ……何故君が僕などに相談を持ちかけてきたのか、一体君と智はどういう関係なのか、疑問は尽きるどころか湧き上がる泉のように、その勢いは留まるところを知らないぐらいなのだけれど、それはよしとしよう』
『御託はいいからさっさと教えやがってください』
『そもそも、一体智の身に何が起きたのかな。それを話してはもらえないだろうか』
『アイツがあたしにメシ作ってくれないんだ』
『は?』
『アイツが、あたしに、メシ作ってくれないんだ!』
『……』
『……なんだその間は』
『べっつにー、いいですけどぉー』
『おいキャラが違うぞ』
『たまにはそういうことがあってもいいのかもしれないね。ともかく央輝、なんらかの原因で智の機嫌を損ねたんじゃないのかな』
『そうだとして、どうしたらいいんだ教えろ』
『明日は満月だ。月夜の散歩というのも、悪くはないんじゃないのかな』



***



「おいオマエ、あ、あたしが、その、で、でぇとしてやるから付き合え!」
「めんどくさぁい☆」
「死ね」

 前回の反省を生かし、央輝は勢いよく助走をつけて飛び上がると、右足に力を込め、蓑虫の腹目掛けて膝の皿を叩きつけるようにダイブをかます。

「どぅりゃ!」
「げぶぅ!?」

 蛙が潰れたような声をあげて、酸素を貪るように口をぱくぱく開閉させる智と、のしかかったまま力を緩めず、こないだの恨みとばかりに脇腹にグーパン連打を叩き込む央輝。くぐもった声で喘ぐ智と、激しい呼吸とともに上体を揺さぶる央輝。端から見れば騎乗しているように見えなくもないその構図は、しかし交わされる会話によって否定されていた。

「いい加減にしろ、このっこのっ!」
「いたいいたい〜。ぼうりょくはんたぁーい!」
「〜〜っ! オマエ、この短気なあたしがどれだけ我慢をしていると、どれだけオマエのことを思って、その、」
「その?」
「お、オマエのことが、す、す、」
「す?」
「素敵に便利な道具として使ってやってると思ってるんだ!」
「ないわー」
「大体オマエ、何を拗ねてるんだ?」
「ちがいますぅ、拗ねてなんかないですぅー」
「その口調は割とマジでヤメロ。甞められるのは好きじゃないって言っただろ」
「ぺろぺろ」
「舐めるなっ!」

 指を舐られ、少しだけ頬を桃色に染めた央輝が慌てて飛び退くと、智は再び蓑虫ごっこに興じ始める。ごろごろー、ごろごろー。生産性に乏しいその不毛な行為も、当の本人からすれば満足気だ。
 しかし放置された側の本人からすれば、何とも面白くない話だった。苛立たしげに愛用のライターをカチカチと鳴らす。胸ポケットから煙草を取り出そうとし、『料理の香りが飛ぶから止めて欲しい』と智から懇願されて禁煙中だったことに気がつき、ますます不機嫌そうに眉を顰める。

「で、メシは?」
「めんどくさぁい☆」
「……そうか。そっちがその気なら、あたしにも考えがある……」

 唇を吊り上げて嗜虐的な笑みを浮かべる央輝。その呟きに応えるものはいなかった。



***



 ぴっぽっぱっぽっぱっぽっぱ
 とぅるるるるるるる、とぅるるるるるるるる、がちゃ

『もしもし、こちら鳴滝めの携帯でありますが、どちら様でしょーか!』
『あたしだ』
『ぬおう、央輝センパイからお電話とは珍しいでありますっ』
『端的に用件だけ言うぞ。来い』
『はい?』
『来い』



***



「よく来たな。帰れ」
「ひどっ!? それが突然の呼び出しにも関わらず駆けつけた後輩にかける言葉でありますかっ!?」

 宵闇の中を自宅からこっそりと抜け出して智の家までやって来た鳴滝こよりは、かけられた慈悲無き言葉に涙目を隠せなかった。口を尖らせて抗議の声を上げる。

「今日は待望の新作ゲームの発売日で、サタデーナイトフィーバーを満喫しようと仮眠を取ってまで待機してたでありますよっ! どうしてくれるでありますかっ!」
「うるさいっ! こっちだってそのサタデーナイトフィーバーとかいうやつに預かって、いろいろと作戦を練っていたのにこのザマだぞっ! 一体どうしてくれる!」

 しかし抗議の声は上塗りされ、怒りは央輝の一睨みで萎んでいく。睨み合う獅子と兎、勝敗は出会う前から決していたのだ。

「うう……花鶏センパイに言いつけてやるでありますよー!」
「勝手にしろ。それより頼んだものは持ってきたのか?」
「くうう、なんかこのまま手渡すのも悔しいでありますが……わざわざここまで来て何もせず手ぶらで帰るというのもそれはそれで悔しい……なんというジレンマ……さすが央輝センパイ、抜け目なくダブルトラップを仕掛けておくとは……」
「何をブツブツ言ってるんだ。とっとと寄越せ」
「あうっ」

 央輝がこよりから奪い取ったのは、一冊の料理本。

『激選! 今日のおかず101品』

「よし。帰れ」
「うわーん! 央輝センパイのばかぁー! おにぃー! ぶたのけつぅー!」

 ドップラー効果を利かせて走り去るこよりには目もくれず、央輝は真剣な顔つきで、手の中に収まった本のページを繰り出した。



***



 とんとんとん、とんとんとん。
 野菜を捌くリズミカルな包丁の音に、智は目を覚ました。

「起きるのめんどくさぁい☆」

 目を覚ましていなかった。だらだら寝ていた。ぐうたら蓑虫だった。
 もぞもぞと布団の中で身じろぎをすると、あくびを一つ噛み殺し、蓑虫移動を開始する。

――さて。

 ごろごろ転がりながら智は考える。ここまでは計算どおり、央輝ならこうするんじゃないかと思っていた。けれどここから先は未知の領域だ。何一つ予想できない。
 いくら『好きな女の子の手料理を一度でいいから食べてみたい!』夢を叶えるためとはいえ、些かやりすぎてしまったかもしれない。そもそもの前提として、央輝が料理を作るところまではいいけれど、果たして智の分まで作ってくれるかどうかは激しく疑問だ。むしろ作ってくれる可能性のほうが低いんじゃないかと、これまでの行いを鑑みて、今更ながらの後悔が襲い掛かってくる。
 さらに言えば、仮に智の分まで作ってくれたとして、失礼な話、食に値するレベルのものになるのかもわからない。冷静に考えれば、普通に調理すれば普通に食べられる物ができるはずだけど、央輝に至ってはその『普通』がこなせるかが怪しい。出会ったばかりの頃の『口に入るものなら食える』発言が、まるで昨日のことのように、鮮やかに耳に蘇る。

――ひょっとして僕は、あまりにも分の悪い賭けに出てしまったんじゃないだろうか。

 計算高い思考と冷や汗を垂れ流しながら、しかし智は演技の手を緩めない。

「あれ、央輝がご飯作ってくれるの? わぁいらくちん〜」
「イライラするから黙ってろ」

 智は転がり続ける。キッチンから聞こえる間断ない物音に、時には心ときめかせ、時には不安に胸を詰まらせながら、ひたすら転がり続ける。

「あっ落とした、くそっ! まあいい、これはアイツの分だ」
(えー!?)
「少し塩胡椒利かせすぎたな。まあいい、これもアイツの分にしよう」
(ひどっ!?)
「焦げた。アイツの分に――」
(らめぇぇぇぇぇ!?)

 不安しかなかった。それでも智は転がり続ける。執行の時を怯えながら待ち受ける死刑囚の心持で転がり続ける。

――やっぱり、分の悪い賭けだったかも……

 己の浅はかさを呪いながら。



***



「出来たぞ。さあ喰えとっとと喰え」
「むぎゅう」

 足で顔を踏まれ、不満の声を漏らした智は、キッチンから匂い立つ香りに誘われるように、ふらふらと立ち上がった。

「おおう、央輝のエプロン姿……」

 テーブルに用意された料理よりも、激しい戦いの後を垣間見せる荒らされたキッチンよりも、何より智の目を引いたのは、エプロン姿で佇む央輝の姿だった。律儀に三角巾まで使って頭を覆っているあたり、変に真面目な央輝に、智は苦笑を漏らす。

「なんか央輝、食堂のおばちゃんみたい」
「蹴るぞ」

 皿を並べ終え、最後に食器を用意した央輝が威嚇する。『やぁのん♪』口撃でそれを受け流した智は、改めて並べられた料理に目を配らせた。

――メニューはシンプルに、炒飯と付け合せのスープのみ。丸く盛られた炒飯をレンゲで突き崩し、目を凝らしてみれば、きちんと直火を通して油を飛ばし、米粒一つ一つがパラリと良い具合に解れている。フライパンで炒めるだけでは、こうはいかない。米粒が油を吸い込んでベタベタとするような舌触りでは、炒飯とは呼べないのだ。合格。
――具材は卵と焼豚、それに葱とザーサイを加えたオーソドックスなもの。レシピ通り、基本に忠実。溶き卵の投入タイミングを見誤ったのだろうか、少し焦げ目がついてるのはご愛嬌。合格。
――スープは卵とわかめの具材にした中華風。炒飯の箸休めには最適だ。色合いがやや薄めなのは、塩気の強めなザーサイ炒飯との相性か。その心意気やよし。合格。
――総評……合格(見た目だけは)

「よ、よし。た、食べるよ?」
「あ、ああ」

 両者互いに緊張感を漂わせた食事が始まった。レンゲで掬った炒飯を、ふーふー冷ましてから口に運ぶ智のそうした一連の動作を、央輝は食い入るように見つめている。

「あむっ」
「……どうだ?」
「……おいひぃ!」

 幾度か咀嚼を繰り返した智が、口をもごもごさせながらそう応える。刹那、央輝の表情に輝きが見え――たかと思うと、次の瞬間には既にぶっきらぼうな態度でそっぽを向いていた。

「えー、失敗したっぽい声が結構聞こえてたのにー! え、何これ何の魔法!? チート? あ、わかった出前でしょ? ずるいなぁーもう。 で、どこのお店?」
「素直に褒められないのかオマエ」
「ごめんごめん。うん、おいしいおいしい」
「ほんとにそう思ってるのか?」
「思ってる思ってる。おいしいおいしい」
「チッ、どうもオマエの言葉は信用ならん。おい――"見ろ"」
「えっ? ……あああああぁぁぁそれはもうやめてって言ったのに……っ」

 言葉と共に智が顔を上げ、そこで央輝の"才能"が発動する。その眼に見つめられたものは、何者も拒むことは出来ない央輝の恐るべき能力――"感情の増幅"。智とて御多分に洩れず、金縛りにあってしまったように微動だにできなくなっていた。そして糸の切れたマリオネットのように、がくんと一度上体を揺らすと、

「――――おいしいおいしいおいしいおいしい! おかわりおかわりおかわりおかわりっ!」
「あっはっはっはっは! どうやら本当にそう思ってたみたいだな。ほら喰えさあ喰えたんと喰え!」

 用意されたおかわりを脇目もふらずひたすら食べ尽くそうとする智の姿を、央輝は満足気に目を細めて見つめていた。



***



「うー、くるしーよー」
「……」
「あー、くるしーなー」
「……」
「いぇんふぇいさーん?」
「……うるさいぞ。オマエの下らん策略に乗ってやっただけでも感謝しろ」
「うえぇぇぇ!? って苦しっ!」

 恨みがましくジト目で央輝を睨んでいた智は、思わぬ返答に横たえていた体を跳ね起こそうとし――ぱんぱんに膨らんだお腹でつっかえて仰向けに倒れた。

「げふー。も、だめ……」
「おい、汚いぞ。そんなナリならもっと可憐にゲップしろ」
「そんな無茶な……大体誰のせいだと……ってゆうか! さっきの! どういうことなのっ! 央輝、一体いつから気づいてたのっ!?」
「さあな」
「ほんとに気づいてた?」
「さあな」
「ついにデレた? デレちゃった?」
「うるさいっ! 潰すぞっ!」
「やぁのん♪ってちょっと待って今お腹踏んじゃダメなんか出ちゃうかららめらめ出る出るいろいろと乙女から出ちゃいけないものが出ちゃうのおおおおおお!?」
「誰が乙女だ! この性悪が!」



「おーいトモちーん、吸尻姫花鶏にいじめられたかわいそうなわんちゃんに愛の恵みをー……って」
「同じく哀れで可憐で薄幸の美少女でおまけに可愛くて子猫みたいて愛くるしいと近所で評判な茜子さんにも愛の恵みをー……って」

 突然の闖入者にも気づかずもつれ合う二人を、皆元るいと茅場茜子は呆然とただ見ていた。フリーズした脳みそに血を通わせ、必死で思考巡らせ、二人が出した結論は――

「おお……なんということでしょう……二人は……二人は……もう、こんな、引き返せないところまで……」
「いぇんふぇいがトモちんを孕ませてボテ腹虐めてドメスティックバイオレンスだーーーーーーー!」

――その後半年に渡って、事ある度に話の引き合いに出される"伝説のろい"を生み出した。

  

<了>

  


↑面白かったらぜひっ

あとがき

 だらけニートな智ちんが書きたかった。
 いじめられた子ウサギなこよりんが書きたかった。
 二人の仲にちょっと嫉妬気味な恵さんが書きたかった。
 そして何よりも純情系いぇんふぇいちゃんが書きたかった。
 ダメガネさんまじ空気。

 というわけで、ご閲覧ありがとうございました。原作の雰囲気とかあんまり出てないような気がしてならないのですが、とにもかくにもるい智SS第一弾でございます。もしるい智でSS書くなら央輝で書こうと決めてました。央輝かわいいよ央輝。
 いかがでしたでしょうか。ご感想などいただければ幸いです。

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