○月×日 晴れ

 記念すべき新しい人生の第一歩は、この日記と共に始めよう。 



 ○月×日 晴れ

 といいつつ力尽きて眠りについてしまいましたとさ。
 ま、いっか。誰が見るってわけでもないんだし、別に格好つける必要もないっしょー。涎の跡がついてるけど気にしない!

 というわけで昨日あったこと。

 まあなんといいますか、平たく言えば脱出成功? みたいな?
 監獄めいたコンクリートの塊(姉御が好んで使ってた表現)からも、足元に絡みついたまま放してくれない底なし沼みたいな家からも解放されて、今はただ、私たちだけの世界が目の前に広がってる。
 ←には理樹くん、→にはおねえちゃんがいて、手を繋いでどーんって思い切り振り上げたら腕が痛くなったって怒られた。くそう。
 だってしょうがないじゃん、うれしいんだもん。そんなときはひゃっほーって叫んでみたくなるじゃんかよー、ぶー。
 
 そいでもって今日あったこと。

 住む家が無事に決まりました。というか既に用意してあった! いやーさすがは我が両親、私と似て抜かりがないようで何よりで(鼻水の跡)。んあー、今誰か私のこと噂しなかった? ってこんな独り言で紙面埋めてる場合じゃないし。編集長に怒られるし。

 家はまあ、ぼろっちいどこにでもありそうなアパートの一室なんだけど。それがまた味があるというか風情があるというか。 
 こう、秘密基地って感じがして実によろしいですナ。こういうの憧れだったし。
 まあおねえちゃんは「汚いだけ」とか「壁がぼろぼろ」とか文句ばっかりだったわけですが。
 まったく、情趣を解さない野人め!
 理樹くんのほうは「懐かしいなあ、昔恭介たちとこういう廃屋探検とかしたっけ」と、まあ男の子らしい発言。さすが理樹くん、分かってらっしゃる。お目が高いね、いよっ、大統領!
 でも今から自分たちが住むところを廃屋って言っちゃうのはどうかなー?とはるちんは思うわけですよ。
 まあそれでも野人よりはマシですけどね。ばーか。佳奈多のばーか。直接言うと怒られるのでここで何度でも言ってやる。佳奈多のばーか。





 ○月×日 晴れ

 今日は三人で部屋をリフォーム。
 まあなんですか、秘密基地とかロマン溢れること言ってみたところで、現実に床が剥がれて得体の知れない染みが浮き出てたり、剥がされた壁紙がぺろーんと垂れて頬を撫でてきたりとかしたらさすがにドン引きなわけでして。ちなみにもちろん昨日はこんな部屋で眠れるわけ無いのでホテル探して泊まりましたよっと。
 そんなわけでホームセンターで適当な具材買い揃えてお部屋の模様替えというわけなのでした。
 各部屋を分担して、剥がれた壁紙を応急処置で糊付けしたり、床掃除したり、カーペット敷いたり、空気入れ替えたり、必要最低限の調度品整えたりして何とか日が暮れるまでには人の住めそうな空間の出来上がり。途中キッチンでお茶を入れてのんびりしていたのがばれて、その罰としてやらされた風呂掃除を最後に私が終えると、待ってました夕食タイム。なにがでるかな、なにがでるかな……ホカ弁でした。しかものり弁。いちばんやっすいのり弁。こんなもので一人で最後までやらされたはるちんの鬱憤を晴らせると思うなよっ!

 大変おいしゅうございました。



 ○月×日 晴れ

 バイトの面接に行ってきました。オムライスがうまいと評判の洋食屋さん。個人経営、店長さんは男やもめらしい。大変ダンディーな方でした。
 いろいろと訳有りな素性誤魔化すのメンドくさいかなーと内心舌打ち状態だったけど、このおっさん、もとい渋いおじさまはあまり細かいことを気にしないみたい。面接なのか雑談なのかよくわからない話し合いをちょこっとしただけで即採用。
「明日から打ち合わせ通りのシフトでよろしく頼む」
 の、渋い声の一言で締めくくられそうになって「え? あるぇー? あの、こんな簡単に決まっちゃっていいんスかね?」と思わずタメ語になるぐらいびっくりしたわけですが、事情を聞いて「ああなるほど」と納得。
 ベテランさんの一人が進学のための準備で忙しくなるとのこと。そんなわけで猫の手も借りたいほどだったというわけですナ。

 棚餅状態(棚からぼた餅の略。棚ぼたともいう)ではあるものの、とにかく決まったんだからラッキーとばかりに外へ飛び出して一目散におうちへリターン。きっと二人とも喜ぶぞーとドアをだーんと強めに開けて部屋へ転がり戻ると、目を丸くしている理樹くんとおねえちゃんに向けてぴーすサインと共にバイト受かったーと報告。喜んでくれるかな、喜んでくれるよね?
「私の勝ちね、直枝」
「ちぇー」
 こいつら賭けしてやがりました。
 罰ゲームで何かを買いに行かされたらしい(つまり私が面接落ちるほうに賭けていた)理樹くんが戻ってきたら割と本気でグーパンしてやろうかと思ったけど、私の分のアイスも買ってきてくれたから許す。バニラとオレンジ一個ずつ。

 大変おいしゅうございました。



 ○月×日 曇り

 嫌なものを見てしまってちょっとブルー。
 寝る。



 ○月×日 晴れ

 仕事の基本は皿洗いから!
 というわけでひたすら食器など洗っております、はるちんです。

 こういう雑用は別に嫌じゃないけど、っていうか慣れてるけど、いや慣れてるだけにすぐに飽きました。
 今日はなんだか思った以上に繁盛してて洗い物には困りません。食器洗い機の導入まだー?
 ずーっと水に浸けっぱなしで手がふやけそうになりだしたころ、ようやく待ちに待ったランチタイム。賄いは当然近所で評判のオムライス! 
 と思ったらごはんに味噌汁とお漬物でした。あれ、なにこの余った朝食感ばりばりの寂寥感溢れる食卓。ご丁寧に味付けのりまでついてるし。ぱりぱりだし。なにこれ、こんなんで私の挫折と悔恨と苦悩の二時間の埋め合わせになるとでも思っているのかー!

 大変おいしゅうございました。



 ○月×日 雨

 うん、わかってた。
 これは避けては通れない問題なんだってこと。
 この間は逃げちゃったけど、今日はちゃんと向き合います。

 私のバイトはほとんど定刻どおりに終わることが多い。けれど極稀に客足が芳しくなくて店が暇になったりすると、店長から直々に早上がりのお達しを受けたりもする。もちろんその分給料が引かれたりなんかしない。曰く「ウロチョロされるとかえって邪魔」らしいとのこと。
 私としても別にやることもなくて邪魔者扱いされてまで店にしがみついていたいわけでもないので、そういう時はラッキーついてるーとばかりに遠慮なくあがらせてもらうことにしている。

 今日もそんな風にして家に戻ったところで、見ちゃった。
 いや正確には見ていないんだけど。
 でも、靄がかっていたはずの、見てみぬフリを続けるつもりだったはずの何かが、透けて、見えちゃった。

 ドアを開けたところで、ガタンってちょっと大きな音がした。なんだろうと不審に思って中を覗き込むと、理樹くんとおねえちゃんが不自然に距離を置いた実に微妙な体勢で背中合わせになって、

 それから先はよく覚えていない。多分おかえりとかただいまとか無難な会話を二言三言交わして、そのまま自分の部屋へ逃げ込むように飛び込んだんだと思う。
 次に意識がはっきりしたとき、私はベッドの上でうつぶせに臥せっていた。妙に湿った枕元を握り締め、腫れぼったい眦を擦ると、脳裏に焼きついていた記憶が何度もフラッシュバックする。

 オレンジ色に染められた二つの影と、不自然にてらてらと光る、濡れた二人の口元。顔が紅く見えたのは、夕日のせいかな、どうかな、よくわからない。わからなくていい。知りたくもない。できれば見たくもなかった。
 
 この眼が視力を無くしたら、きっと二度と見なくても済むのに。
 
 

 ○月×日 雨

 夜中にふとした拍子に目を覚ました。
 初秋を思わせる肌寒い夜気に身を震わせ、身体を掻き抱くようにして布団に縮こまっていると、どこかから聞きなれない異音が聞こえてくる。どこか嫌悪感に似た不気味さを覚えながらも、私は音のするほうへと吸い寄せられるようにして近づき、
「…………」
「……っ……!」
 二つの身体が一つに折り重なって溶け合って、絡み合って求め合って、舐りあって達しあう光景を、どこか遠い風景を眺めるような心持で、ああ、やっぱり目を潰してしまえばよかったのかなんて、でもやっぱり怖いよね。うん、怖い怖い。
 窓から差し込む月明かりに照らされて浮かび上がった、悦楽の余韻に夢見心地な女の姿が、まるで鏡を見ているかのように私の姿にダブついていて、熱く火照った身体が、何かを求めて疼いてた。



 ○月×日 ???(文字が擦れている)

 ダークサイドになんか、堕ちるもんか。



 ○月×日 晴れ

 バイトを始めてから1週間、ようやく皿洗いマシーンのお役御免を仕ったはるちんが次に仰せつかったのは、(まあ別にこんな大袈裟に書く必要もないんだけど)飲食店の花形、ウェイトレス。この、店の顔ともいえるポジションに見事私が就任できたのは、ひとえにはるちんの不断の努力と類稀なる才のおかげでしょう。
「今日からフロア入ってくれないか」
 通算10枚目の皿を割るのとほぼ同時だったこの宣言は、マスターの何故かちょっと血走った眼差しとともに送られたのですが、きっと彼は寝不足だったのでしょう。もうあんまり若くないんだし、無理しないほうがいいですヨ。

 そんなこんなで今日は一日中、地味目な制服に身を包んで、決して広いとはいえない店内をぱたぱたと小走りに駆け回っていたのでした。常に繁盛してるとは言いがたいこのお店、しかしさすがに食事時ともなればラジオ体操してるわけにもいきません。3番テーブルの注文を聞くやいなや1番テーブルのオーダー届け、戻る途中でドアベル鳴らしてやってきたお客様を席へとご案内。料理が遅いとご立腹のお客様を宥めては、別に私のせいじゃないのにーと心の中で叫び散らし、店内を元気よく駆け回るお子様にスカートめくりされたりと(妄想)、てんやわんやの一日でした。いつもフロア担当してる人が今日はお休みだったので、実質私一人で切り盛りしてた感じ。一応私、初心者なんですけどね。

 夕食時のラッシュを切り抜け、マスターが新聞を読みふけるようになった午後7時半。定刻どおりに仕事を終えた私は、疲労を抱えた体を引きずるようにして帰宅、しようとして途中で力尽き、近くの公園で休むことにしました。ベンチベンチっと。
 自販機で買ったオレンジジュースのプルトップが生意気にも抵抗を続け、なにこのくそーと力を込めるとぱっきょーんと甲高い音を立ててプルトップが吹っ飛びました。夜空に浮かんだその放物線の軌跡を、どこまで行くのかと目で追っていくと、何のことはなし、近くのアスファルトにちゃりーんとか細い音を立てて微かに震え、後はただ物言わぬ屍のようにそこに横たわるだけでした。

 プルトップさんは、どこへも行けなかったのです。

 余談だけど、中途半端に口の開いた缶ジュースって、舌とか切らずに飲むのが難しいよね。



 ○月×日 ???

 *ねばいいのに。



 ○月×日 雨

 部屋全体が軋むような揺れが、床を伝って私の元まで伝わってくる。ぎし、ぎし、と耳障りな空気の振動に入り混じって、押し殺した女の嬌声とくぐもった男の吐息とが、不協和音を奏でるように私の鼓膜を通って脳を侵食していく。いくら耳を塞いでみても、こびり付いた音の破片が手をすり抜けて私を苛んでいく。こみ上げる吐き気にぼんやりする頭で、明日は耳栓を買ってこようと思った。



 ○月×日 ???

 みんなしあわせになれればいいのにね。



 ○月×日 雨

 夢を見た。
 夢の中で私は、今自分の目の前に広がっている光景が夢の産物であることを確信していた。
 明晰夢。
 話には聞いていたけど、実際に見るのは(覚えている限りでは)初めてだ。
 なんだか不思議な感じ。ぽわぽわと体が浮いてるようで、その実、地に足をつけている。地に足がついているようで、その実、ぽわぽわと体が浮いている。

 夢の中の私は、誰かに押し倒されて組み敷かれて、それに抗うかのように両手で相手を跳ね除けようとしていたけれども、同時に相手を歓迎しているかのようにその力は弱弱しいものだった。
 男の手、というには少し線が細く、けれども力強さを感じさせるそれが、私の胸の辺りをまさぐって、撫でては揉んで、揉んではこねてを繰り返す。その合間に交わされる口付けに、抵抗する力ごと吸われてしまった私は、こわごわと相手を見つめる。どこか無機質な、人形めいた顔立ちの彼は、作り物めいた笑顔で私を見つめ返していた。

 だめだよりきくんこんなの、どうしてさいいじゃないか、だってりきくんにはおねえちゃんが、かんけいないよそんなの、でもやっぱりこんなの、はるかさんはぼくがきらいなの、そういうわけじゃないけど、ぼくにこういうことされるのがいやなの、いやじゃないけど、じゃあいいじゃないか、あっやっそんなにつよくしないで、はるかさんむねおっきいね、そんなことないよ、かなたさんよりおっきいかも、くらべたりしたらいや、うんわかったよくらべない、ほんとう?、やくそくするよ、

 ぼくはきみだけをみつめる。

 夢から覚めた私がまず初めにしたことは、汚れた下着を取り替えることと、今日はバイトもオフだし図書館で夢でも調べようと一日の計画を決めることだった。
 ほら、明晰夢って、訓練すれば自分で好きな夢を見れるっていうし。



 ○月×日 ???

 り**んも、おね****も、*えてしまえばいいのに。
 でもそうしたら、いちばんだめなわたしだけがのこるの。



 ○月×日 曇り

 四皿目のオーダーを床に落っことしたところで、マスターから休憩を言い渡された。それどころか今日はもう帰っていいとまで言われた。
「そんなんで出られても逆に迷惑だ」
 冷たく放たれたその一言には、しかし私への気遣いが確かに感じられて。
 だからこそ余計に惨めすぎて泣きたくなった。

 最近はバイトが終わった後も、まっすぐ家には帰らず、公園で適当に時間を潰してから帰宅するのが常だった。二人が寝静まったころに戻るのが望ましい。顔を合わせずに済むから。
 初めのうちは私の帰りが急に遅くなったことに心配げだった二人も、私が忙しいとかやりたいことがあるとか適当にお茶を濁しているうちに、何も言わなくなっていった。たぶんこのほうが二人にとっても都合がいいのだろう。理樹くんもおねえちゃんも決して口にはしなかったけれど、私は勝手にそう解釈することにしていた。
 だから今日も公園のベンチで、お気に入りとなったオレンジジュースをちびちびと舐めるようにして飲んで時間を潰していた。周囲に人気はなく、静謐な夜気を乱すものは、虫の鳴き声を除けば、時折通りがかる自動車の排気音ぐらいなものだった。
 そうして今日の失敗を省みていくうちに、何の役にも立てなかった自分が、かつて虐げられていたころの過去の自分と重なって憂鬱になる。いつか見つけたはずの私の居場所は、もうどこにも見当たらなかった。
 奪われた、なんて傲慢なことは考えない。私のために用意されていたように見えたその場所は、結局のところ私のために存在していたわけじゃなかったんだ。初めから、なかった。それだけ。憎しみとか、そういう負の感情も取り立てて沸き起こっては来ない。

 今はただ、哀しい。
 


 ○月×日 曇り

 二人が所用で留守だということで、たまたまオフだった私は一人で留守番をすることになった。
 私が家にいるときは、たいてい二人とも家にいたので、気のせいか少しだけ広く感じる。布団の上で手足をばたばたさせても、うるさいと怒鳴り込んでくるおねえちゃんもいない。その隣で、仕方がないなあと弱々しげに微笑む理樹くんもいない。
 かまってくれる人がいないと張り合いもなく、騒ぎ立てるのも飽きた私は、いつもは言われてもやらない部屋の掃除をし、昼食を済ませ、何もやることがなくなって寝転がっていた。このまま今日は一日寝てすごそうかなーと、怠惰な思考に身を委ねようとしたところで、ふとした妙案を思いつく。

 そうだ、理樹くんの布団で寝てみよう。



――Interlude T――



「一体なにしてるのさ……」
「え? 何って、理樹くんの布団でおねんね?」
「いや、疑問文で返されても。どうして僕の布団で寝るんだろう」
「どうして? どうしてかな?」
「僕に訊かれてもわかるわけないよ」
「わからないの? 本当にわからないの?」
「……」
「理樹くんのことは好きだけど、鈍感なフリをする理樹くんは嫌だよ」
「……ごめん」
「謝らないで」
「……うん」
「謝るぐらいなら、私を抱いて」 「それは……無理だよ」
「別に一度きりでいいんだよ? 佳奈多にも言わないし。それに私、後で面倒なこと言ったりしないから。忘れろって言われたら、忘れる。もし満足できなかったら、何度でも抱いたくれたっていいし。理樹くんにとって最も都合のいい女になってあげるよ」
「ちがうんだ、そうじゃないんだ」
「私、女としての魅力、全然ないのかな」
「そうじゃない。葉留佳さんは女の子として可愛いって思うし、正直に言えば、僕は葉留佳さんこと好きだよ」
「じゃあ、どうして?」
「好きだけど、愛せないから」
「……」
「葉留佳さんには幸せになって欲しいと思う。あれだけ長い間悲しい思いばかりしてきたんだ。幸せになっていい。君にはその資格が充分にあると思う。でもね……僕がその幸せを実現させたいとは、思えないんだ。もちろん、できる限り力になりたいとは思う。けれど、もし君が僕自身をその幸せの対象としてしまうというなら、僕はそれに応えてあげるわけにはいかないんだ」
「それが、好きだということと、愛してるということの、決定的で、致命的な差なんだと思う」



――Interlude T――



 ○月×日 晴れ

 お世話になったバイト先のマスターにぺこりとお辞儀をすると、がんばれよ、とぶっきらぼうながらも暖かい言葉が投げかけられた。不覚にも涙が零れ落ちそうになって、慌てて背を向けた。マスターはほんの数秒ほど後ろに佇んでいたかと思うと、次の瞬間には何も言わず店の中へ戻ったらしく、後ろに誰の気配も感じられなくなった。最後の最後まで、渋いおじさまだった。そして私は、最後の最後まで、かっこわるかった。

 突然辞めると申し出た私の言葉を静かに受け止めたマスターは、書き入れ時の忙しい最中、これまで働いた分の給与をその場で清算し、渡してくれた。少し多めだったのは、きっと気のせいじゃない。先輩ウェイトレスの人も私が辞めるのを最後まで惜しんでくれた。なんだかんだで私はここでうまくやっていけてたし、必要とされてもいたらしい。最後にそれを知ることができて、とても嬉しく思う。

 そのままの足でアパートへと戻り、急ぎ身支度を整え、家を出た。数日かけて少しずつ私物は処分していたから、そんなに時間はかからなかった。最後に置手紙を残し、アパートに向けてぺこりとお辞儀をする(なんだか今日の私はぺこぺこしてばっかりだ、いろんな人にお世話になっていたのだから当然だけど)と、ふらふらとファミレスへ飛び込んで昼食を取る。そして満腹になったところで食後の紅茶を啜りながら、最後になるかもしれない日記をこうして書いている。

 さて、これからどうしたものだろうか。はっきりいって、行くアテはまったくない。でも、どうにかなるだろう。実家に戻ってみようか。しばらく独り身で羽を伸ばしてみるのもいいかもしれない。

 更なる新しい人生の第一歩は、無限に広がる可能性の中から一つ一つ、ゆっくりと選んでいこう。



――Interlude U――



 PCの電源をいれると、ウィィィンという起動音とともにモニターに起動画面が映し出される。OSが完全に起動するまでにはまだ後2、3分はかかるだろう。その間に飲み物でもとってこようと、ソファから立ち上がってドリンクコーナーへと向かった。
 駅前のネットカフェは、普段どおりのそこそこの客入りだった。何が楽しいんだかカップルシートでひたすら漫画を読みふける二人組み、新刊コーナーに漁っている眼鏡をかけた高校生ぐらいの男の子、友達同士で来ているらしい雑談を交わす人たちの隙間をくぐりぬけ、ドリンクサーバーの前にたどり着くと、迷わずオレンジジュースのボタンを押した。サーバーから吐き出される橙の液体から立ち上る、柑橘系の匂いを軽く楽しむと、ストローをさして自席へと戻っていく。
 個別ブースの自分の番号を確かめてから扉を開けると、既に起動完了していたPCが、私の帰りを待っていたかのように静かにファンを鳴らしていた。ソファに座ってまずは一口、ストローを咥えて啜ると、早速マウスを手にとってデスクトップに表示されたアイコンをクリックし、ソフトウェアを起動する。
 ロード画面を経て映し出されたのは、ファンタジー系の冒険RPG。多人数参加型(MMOっていうらしい)のこのゲームは、ネットワーク上で見知らぬ人と会話したり、一緒に冒険できたりするシステムを搭載しており、私もふとしたきっかけで一ヶ月ぐらい前からプレイしている。といっても自前のPCを持つ余裕があるはずもなく、時折暇を見てはネットカフェに立ち寄って2時間ばかりちょこちょこ遊ぶだけのライトユーザーだ。すごい人になると、一日20時間ぐらいプレイするらしいけれど、一体人生のどこにそんな暇があるんだろうと不思議に思ったりもする。閑話休題。
 ログイン画面が表示され、IDとパスワードを入力すると、私が作成したキャラクターの待機画面へ移行する。使っているキャラは緑色の髪をしたハーフエルフとかいう設定で、名前は少し迷った挙句『HARU』と名づけることにした。他にもいろいろな職種がある中で、私がこの子を選んだのには、理由がある。
 ハーフエルフ。人と妖精の合いの子。どちらの種族からも愛されず、中途半端な存在として、居場所を失い一人旅立ったという設定のこの子に、私は自分の境遇を重ねてしまったらしい。そう自覚すると、なんだか恥ずかしさと情けなさが入り混じったやるせない思いが浮かび上がってくるけど、それを無理やり押し込めてスタートボタンをクリックする。
 真っ白に染まったかと思うと、次の瞬間には3D画面が織り成す緑生い茂る森の中、弓を携えて佇むHARUの姿が画面に映し出されていた。立体的に描写されたゲーム画面は、初めのうちは目がくらくらとして落ち着かなかったけれど、何度か続けていくうちに慣れ、今では数時間続けてプレイできるようになっていた。
 といってもこのゲームは(大体のオンラインゲームがそうらしいけど)ゲームクリアが目的ではなくて、好き勝手に動き回って他人と話したりモンスターを倒してレベルを上げたりと、自由度が高く設定されていて、逆に言えばやることがない。別にキャラクターを強くしたりとか、仲間で集まって強敵を打ち倒すことにも興味が持てなかった私は、未だに初心者の森辺りでときたま遭遇する一番よわっちいモンスターをぺちぺち叩いたり、意味もなくゲーム内を走り回ったりして遊んでいるだけだった。
 そう、意味なんてない。別にどうしてもやりたいわけじゃなくて、たまたま暇を持て余していたときに、たまたま目に留まったネットカフェで、たまたまブースに貼られていた広告を見て、なんとなく始めただけだ。当然未練なんてものもなくて、実際今日プレイしたのも、最後の見納めに会っておきたい人がいるからだった。それも、どうしても会いたいわけじゃなくて、もし会えなかったとしてもちょっと残念だなーというぐらいで、私は心置きなくゲームを終了し、キャラクターを消して店を出るだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、誰かが道端に捨てたらしいアイテムを拾って眺めていると、画面の右端に文字が表示される。反射的に目で追うと、期待通りの展開だったせいか、安堵のため息が漏れる。

※プレイヤーキャラクター:Laughさんが接続しました。

 私は早速フレンドリストを呼び出して、メモを送ることにする。このゲームでは、気に入った相手と友達登録をしておくことで、その人物が現在ゲーム上にいるかどうか、いるとしたらどこにいるかの情報から、プレゼントを贈ったり、二人で話したいときには専用のチャットウインドウを呼び出すこともできるようになっている。その中でも最も手軽に相手とコンタクトが取れるのが、メモという機能なのだった。

HARU:『やっほー! おひさしぶり!』

 Laughという人は、私がこのゲームを始めて一番初めに出会った、そして唯一友達登録を交わしたプレイヤー。マニュアルをすっ飛ばして始めたので右も左もわからず、あげく画面に酔って『もうやめてやるー!』と電源ボタンごと切ってやろうとした最中に話しかけてきた人だった。そのときの会話はもう忘れてしまったけれど、親切にこのゲームについていろいろと教わったのは覚えている。それから二人でちょこちょこと冒険(といっても大抵は取り留めのない雑談だったけれど)して、なんとなく気が合うことがわかって、現在に至る。

Laugh:『おーはるちゃん! おひさー^^』
HARU:『らふちゃん元気だったー?』

 Laugh。ラフだから『らふちゃん』。男か女かは知らない。ただ私が試しにそう呼んでみたら妙に喜んでいたから、そう呼ぶことが通例になっていた。

Laugh:『まあ元気といえば元気だし、普通といえば普通だし、微妙といえば微妙かなあ』

 相変わらず、ちょっと不思議な返答だった。そんないつもと変わらない様子に、くすっと笑いが漏れる。

Laugh:『はるちゃんのほうはどうなの?』
HARU:『うーん、まあ元気といえば元気だし、普通といえば普通だし、微妙といえば微妙かな』
Laugh:『あー、真似っこー』
HARU:『あははは』

 誰でもいいから、話がしたい時がある。それは、コンビニの店員とのささやかなやり取りであったり、通販のテレフォンオペレーターとのやりとりだったり、儀礼的なものだって良かった。別に悩みを聞いて欲しかったわけじゃなくて、ただ誰かと話がしたかった。そんなときに巡り会った、ささやかな繋がり。

HARU:『今日はさ』
Laugh:『うん?』

 それは、いつ切れてしまうともしれない、か細く頼りないものだったけれど。
 二度とゲームをしなければ、それで終わるだけの関係だったけれど。
 それでも確かに、救われてもいた。

HARU:『らふちゃんにお別れを言いに来たんだ』
Laugh:『そっか』

 だからだろう、この人にはきちんと別れを告げたいと思ったのは。
 もちろん会える保障はなかったし、別にそれでも構わなかった。

HARU:『驚かないんだ?』
Laugh:『うーん、まあこういうの、慣れてるからね』

 ただ私がゲームに接続するときはいつだって、この人はここに来ていたから、今日も会えるって根拠もなしに確信していただけ。
 そして、やっぱりこの人は来てくれた。

HARU:『そっかー。当たり前のことだけど、私が初めてってわけじゃ、ないんだね』
Laugh:『うん。5人目くらいかな、友達に別れを切り出されるの。慣れたっていっても、やっぱり寂しいよ』

 別に私に会うためじゃなかったかもしれない、ただこの人はこのゲームが大好きで、毎日プレイしているだけなのかもしれない。
 それでも、私との別れを少しでも惜しんでくれるというのなら、それより嬉しいことはない。
 ここに来てよかった。
 そう思った。

HARU:『なんだかごめんね、せっかく仲良く慣れたのに』
Laugh:『謝らなくていいよー、たぶん、仕方が無いことなんだよね?』
HARU:『ん?』
Laugh:『戦いに行くんでしょ?』
HARU:『え? 何と?』
Laugh:『現実と』
HARU:『戦い……なのかな』
Laugh:『違うの?』
HARU:『んー、ちょっと違うかも。私は逃げるんだと思う』
Laugh:『逃げるの?』
HARU:『そう、遠いどこかに』
Laugh:『でも、その逃げる先は、やっぱり現実なんだよね? だったら、やっぱり戦いだよ』
HARU:『え、ごめん、よくわかんないんだけど』
Laugh:『私はあっちの世界でいろいろな物をなくして、いろいろな物を捨ててきてしまったけれど、はるちゃんはまだ、捨てきれないんだよね?』
HARU:『……うん、そうかも』
Laugh:『だったら、はるちゃんはまだ大丈夫。もちろん私には何があったかわからないし、たぶんはるちゃんにも話すつもりはないんだろうけど……きっと辛いことがあって、これから大変な毎日になるんだよね。でも、どんなに苦しくても、心が死んでしまったようになって、何にも喜びを見出すことができなくなって、何もかもが無意味に感じられて、もう駄目だって思っても、諦めないで、もう少しだけがんばって欲しい』

 私はそこでキーボードを止め、画面に映し出された文字を何度か読み返す。
 こうも的確に読まれてしまうなんて、思ってもみなかった。
 ただなんとなく、ばいばいー、またねー、な感じで別れて、最後にお礼を言って、別れるつもりだったから。
 いつのまにかカラカラに乾いていた喉を、温くなりつつあったオレンジジュースで潤すと、私は再びキーボードを叩き始める。

HARU:『待って待って。らふちゃんってばおおげさだよー。たいしたことじゃないって。ただ少し忙しくなるから、一応お別れ言っておこうと思っただけなのにー』
Laugh:『……そっか。うん、ごめんね、なんか早とちりしちゃった。ものすごく恥ずかしいこと言っちゃった気がするけど、忘れていいからね』
HARU:『でももう画像保存しちゃったしー』
Laugh:『ひどいっ>< 早く消してよー!』
HARU:『うそうそ、冗談だって。……ありがとね』
Laugh:『もう……ううん、私のほうこそ、ありがとう』
HARU:『もうそろそろ行くよ』
Laugh:『うん。ばいばい、元気でね』
HARU:『らふちゃんも、元気でね。それじゃ、ばいばーい!』
Laugh:『ノシ』

 最後の言葉を見届けると、私は静かにログアウトボタンをクリックする。キャラクター選択画面へと移り変わり、そこでちょこちょこキーを操作する。次の瞬間にはHARUの姿も消えうせ、後はただ、どこか間抜けな絵柄のガイドキャラクターがゲームへと誘う文句を無機質に繰り返しているだけだった。
 会計を済ませ、店を出る。
 自動ドアを潜り抜けたその先で、初冬の寒気を伴った風が髪を撫で、街頭が照らし出す夜の街並みへと人知れず旅立っていった。



――Interlude U――



 ○月×日 ???

 りきくんがすきなのにりきくんはかなたがすき りきくんがすきなのはわたしじゃない すきだけどすきになれない くるしいつらい どうしてわたしじゃないんだろう きらいになればらくなのにきらいになれない わすれちゃえばらくなのにわすれられない らくになれない むくわれない *ねばいいのにでも*んでほしくなんかない*にたくもない わたしはどうしたいんだろうどうなりたいんだろう あいされたい あいしたい でもあいされない でもあいしてる ねえ 




 どうしたらいいのかな
 


――Curtain Fall――



「葉留佳さん、行ってしまったみたいだね……」
「そうね」
「ごめん」
「どうして謝るの」
「そうするべきだと、思ったから」
「それは何に対する謝罪なの? 誰に対する謝罪なの? 何のための謝罪なの?」
「……」
「誰が悪いってわけでもなかったのよ。二人の女が一人の男を愛した、それ自体は良くあること。不幸だったのは、その二人が姉妹で、互いに離れ離れになることを嫌ったこと。そしてその共同生活に、男を招き入れたこと。その時点で、破滅は時間の問題だったのよ」
「つまり、僕がいなければよかったんだね」
「別にそういう意味で言ったわけじゃない。それをいうなら、初めから私さえいなければよかった、ということだってできるでしょう。もちろんそんなことを言えば、あなたは怒るんでしょうけど」
「そりゃあね。だって、自分さえいなければ、だなんて容易くいえてしまうのは、なんだか哀しい」
「そういうことよ。あの子もそれはわかってる。それでも私たちの前から姿を消したのは」
「辛いから、だね」
「現実はいつだって馬鹿みたいに重くて、泥臭くて、残酷だから。それでも直枝、あなたが私を選んでくれたから、私はここにいる。だけどもし、選ばれたのがあの子だったなら、姿を消していたのは、私のほうよ。他の誰でもない、私のためにそうしていたわ」
「君には初めからどちらかの結末が見えていたんだね」
「それはあの子もでしょうし、あなたもなんでしょ?」
「それでも僕は、まるでそんな未来なんて思いつきもしなかったかのように、明日も今日と同じ日が来ることを願って日々を過ごしていた。知っていたのに。わかっていたのに。二人の気持ちも、僕の気持ちも、それらが何を示唆しているのかってことさえも、知っていたのに」
「そうね。だからこれは、泡沫の夢。私のわがままと、あの子のわがままと、あなたのわがままが、偶然ひとつの地点で交差しただけの、ほんのひと時の夢幻」



『親愛なるおねえちゃん&理樹くんへ
 突然こんな手紙なんか残しちゃって、驚いたかな。
 私ね、この家出ることにしたから。
 たぶん、二人がこの手紙を読んでいるころには、私はもういなくなっていると思います。

 ……ダメだね。言いたいことはたくさんあるはずなのに、ひとつも思い浮かばないや。
 私馬鹿だしね。だから、思いついたまま書くことにするね。
 こうなってしまったのは、きっと理樹くんのせいでもおねえちゃんのせいでもなくて、強いて言うなら私が悪いんだろうけど、そういうと二人はきっと怒るから。
 だから、私は、私のために、家を出ることにしたのです。
 言っておくけど、私二人のこと大好きだから、このことが原因で別れたりしたら、地の果てまで追いかけていってお説教だからね?
 いつまた会えるかはわからないけど、そのときには二人の間に子供ができているといいな、なーんて思ったりするぐらいなんだから。
 
 だから、これは、そのときまでのお別れです。
 その間に私は、私だけの幸せを探しに行こうと思います。
 今までありがとう。
 出来ることならば、二人いつまでも、幸せでいてください』

  

<了>

  


面白かったらぜひっ

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